大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和63年(ワ)212号 判決

主文

一  原告と被告との間で、別紙物件目録一記載の建物のうち、二階の別紙図面(一)の青斜線部分につき、被告が賃借権を有しないことを確認する。

二  原告のその余の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1(主たる請求)

被告は原告に対し、別紙物件目録一記載の建物のうち、二階の別紙図面(一)の赤斜線部分を明け渡せ。

(予備的請求)

被告は原告に対し、原告から金一六五九万円の支払いを受けるのと引換えに別紙物件目録一記載の建物のうち、二階の別紙図面(一)の赤斜線部分を明け渡せ。

2 原告と被告との間で、別紙物件目録一記載の建物のうち、二階の別紙図面(一)の青斜線部分につき、被告が賃借権を有しないことを確認する。

3 訴訟費用は被告の負担とする。

4 仮執行の宣言(第1及び3項につき)

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  別紙物件目録一記載の建物(以下「本件建物」という。)は、もと訴外中沢正の所有であったところ、同人は昭和四九年四月一日から被告に対し、その二階の全部を賃料月額一五万円の約定で賃貸した。

2  昭和五四年、被告は本件建物の二階部分のうち別紙図面(一)の青斜線部分(以下「A部分」という。)を中沢正に返還したので、賃貸借の範囲は右二階部分のうち別紙図面(一)の赤斜線部分(以下「B部分」という。)のみとなり、賃料は月額一〇万円となった。

3  中沢正はその後死亡し、訴外中沢キヨ及び中沢圭治(以下「中沢圭治ら」という。)が本件建物を相続し、同人らが昭和六一年八月、訴取下げ前の原告東京ハウジング産業株式会社(以下「東京ハウジング」という。)に対し、本件建物をその敷地である別紙物件目録二記載の土地とともに売り渡し、さらに同会社が同年九月これを原告に売り渡し、よって原告が本件建物の所有権を取得した。ただし登記簿上は、中間省略により同年九月二〇日付けをもって中沢圭治らから原告への所有権移転登記がなされている。

4  東京ハウジング及び原告は、被告に以下のような信頼関係破壊の事実があるとの理由により、本件の訴状(昭和六三年一月二二日送達)をもって被告に対し、賃貸借契約を解除する旨の意思表示をした。

(一) 東京ハウジング及び原告は、いずれも不動産取引等目的とする会社であるが、原告の自社ビル建設のため、被告との間で明渡しを前提とする円満解決を望み、昭和六二年三月ころから交渉し、明渡しに際しての補償金についても、公正を期するため不動産鑑定をし、賃借権の額を金一六五九万円とする結果を得たので、最低限右鑑定額は補償する旨申し出、また神田神保町界隈の代替物件のリストも交付した。

(二) しかるに被告は、昭和六二年三月ころから突如、自己の賃借権の範囲をB部分に止まらず、二階全部である旨強弁し、かつ債権者不確知とし、賃借権の範囲を本件建物の二階全部としたうえ、同年四月分以降の賃料を月額一五万円として供託を開始した。右供託は、供託の要件を具備しない違法なものであり、被告は同年六月分以降は供託は止めたものの、賃料を月額一五万円として、東京ハウジングに送付し、東京ハウジングはその都度金五万円を返送している状況である。

(三) 被告は、出版業を営み、B部分をその事務所として使用しているが、業務上どうしても本件建物でなければならない理由は皆無であり、合理的な補償金の授受による移転は何ら差し支えない状況にある。

(四) しかるに被告は、交渉の席上、右不動産鑑定の結果を頭から否定する言辞に終始したのみならず、同年一二月一日付けの書簡で、五億円という法外な要求をしてきた。本件が小さな三階建ビルの僅か一〇坪にも満たない借家権補償であることに照らすと、被告の右要求は、原告らの土地開発事業の完了間際になってこれを妨害し、莫大な利益を得ようとするにあることが容易に推認できる。

5  また、東京ハウジングは被告に対し、昭和六二年三月二〇日到達の内容証明郵便をもって、解約の申入れをし、原告は同年五月二二日到達の内容証明郵便をもって、これを追認した。原告には次のとおり正当事由があるので、右賃貸借契約は、同年一一月二二日の経過により終了した。

(一) 原告は、本件建物の敷地を含む約一五〇坪の土地に自社ビルを建設する予定であり、当初の計画から一部変更はあるものの、本件建物周辺の土地の買収を大方完了し、本件建物についても賃借人は被告のみであり、原告の自社ビル建築に多大の障害となっている。

(二) 他方、神田神保町界隈には多数の貸しビルが存在し、被告の移転が困難となることなどあり得ない。

(三) 原告としては、正当事由を補完するため、前記鑑定による金一六五九万円を立退料として被告に提供する用意がある。

よって、原告は被告に対し、所有権に基づき本件建物中のB部分の明渡しを求め(予備的に金一六五九万円の支払を受けるのと引換に明渡しを求め)るとともに、本件建物中のA部分につき被告が賃借権を有していないことの確認を求める。

二  請求原因に対する被告の認否及び主張

(認否)

1 請求原因1の事実は認める。

2 同2のうち、被告が昭和五四年本件建物の二階部分のうちA部分を中沢正に明渡したことは認め、賃貸借の範囲がB部分のみであることは争わない。

3 同3のうち、中沢圭治らの相続の事実及び原告主張のような登記がなされている事実は認めるが、その余は不知。

4 同4のうち、東京ハウジング及び原告がいずれも不動産取引等目的とする会社であることは認めるが、その余の事実は否認し、解除の効果は争う。

5 同5のうち、内容証明郵便の到達は認めるが、その余の事実は否認する。

(主張)

1 被告が本件建物二階のA部分を中沢正に明渡したのは、昭和五四年一二月ころ同人が病気で入院し、子息の中沢圭治の家族が本件建物の三階に住むことになったが、手狭のため、一時的に二階のA部分を明渡したのである。本件建物が東京ハウジングに売却されたのであれば、右事情も消滅したので、当初の賃貸借どおりA部分の占有を回復できる筋合いであるが、被告は、本訴においてA部分の賃借権を敢えて主張しない。

2 昭和六一年九月ころ、東京ハウジングの営業部主任今野馨から、「ここはうちが買ったので家賃の支払は当社にされたい。」旨告げられ、中沢圭治らからも同旨の通告があったので、同年一〇月分以降の賃料は同会社に支払っていた。ところが、そのころから翌年にかけて、本件建物周辺でいわゆる「地上げ」が続き、被告に対しても本件建物の明渡しを求められたので、被告があらためて同会社に対し、所有権の取得を証する資料を提示するよう求めたところ、同会社から昭和六一年一一月一三日付けの東京簡易裁判所の和解調書が示された。しかしながら、本件建物の登記簿上の所有名義人は原告となっていたので、被告は昭和六二年四月中、東京ハウジング及び原告に対し、いずれが所有者なのか問い合わせたが、何の説明もなかった。そこで被告は、同年五月一四日、債権者を確知できないことを理由として、同年四、五月分の賃料を供託した。その後被告は、原告の同年五月二一日付けの書面により、本件建物の所有権は原告に移転しているが、賃貸人の地位は東京ハウジングに留保されているので賃料は東京ハウジングに支払うように、との通知を受けたので、その後の賃料は同会社に支払っている。

3 東京ハウジングが、いわゆる地上げ目的で、被告を含む周辺の権利者と様々な交渉をしていたことは承知しているが、原告が自社ビルを建てるということは本件訴訟になって初めて明らかにされたことである。被告としては、札束で人心を荒廃させるような「土地再開発」に賛成できないのであって、原告のいう再開発事業が完了間際かどうか、被告の関知するところではない。

4 原告は、被告が高額な立退料を要求したというが、被告はそもそも立退きの意思を表明したことはないのであって、原告のいう金額は、東京ハウジングが昭和六二年九月末ころ被告に対し、一方的に不動産鑑定書と神保町界隈の空室リストを送付し、被告にコメントないし対案を出すよう求めてきたので、これに対し被告が試算を示しただけである。

5 神田神保町界隈が出版社のメッカであることは、公知の事実であり、被告は創業以来二一年の長きにわたり神田神保町で営業しているのであって、被告としては本件建物で営業を継続することが是非必要である。

第三  証拠〈省略〉

理由

一  請求原因1の事実及び同2のうち、被告が昭和五四年本件建物の二階部分のうちA部分を中沢正に明渡し、賃貸借の範囲がB部分のみであることは、当事者間に争いがない。

二  また同3のうち、中沢圭治らの相続の事実及び本件建物につき昭和六一年九月二〇日付けをもって同人らから原告への所有権移転登記がなされていることは、当事者間に争いがなく、〈証拠〉によれば、東京ハウジングは、同年八月下旬ころ中沢圭治らから本件建物及びその敷地である別紙物件目録二記載の土地を買い受け、さらに同会社から原告がこれを買い受けてその所有権を取得したことが認められる。

三  信頼関係破壊による解除及び正当事由による解約の成否について検討する。

1  〈証拠〉によれば、次の事実が認められる。

(一)  東京ハウジング及び原告は、いずれも不動産取引等目的とする会社であって(この点は当事者間に争いはない。)、千代田区神田神保町地区が将来的にはオフィス街として新たな需要の対象地となるとの見通しの下に、昭和六〇年春ころ、同町二丁目九番地のブロック約二〇四坪(別紙図面(二)のオレンジ色で囲まれた部分、以下「本件ブロック」という。)の再開発計画を立て、東京ハウジングがいわゆるデベロッパーとして、原告がいわゆるエンドユーザーとして、同年一二月ころから本件ブロック内の土地建物の取得を開始した。本件建物及びその敷地も、右計画の一環として、東京ハウジング及び原告が順次取得したものである。ただし、本件建物を取得するに当たり、右のような計画を被告に事前に開示してその協力を求め、又は求めようとした事実はない。

(二)  原告の当初の計画によると、原告は本件ブロックに建築面積約二〇〇坪、地上一一階、地下一階の賃貸用のビルを建設する予定でいたところ、同町二丁目九番二、八及び九の三筆合計約五〇坪(別紙図面(二)の赤斜線部分)については、その上に新たな共同ビルが建築されてしまったため、原告はその取得を諦めざるを得ず、建築面積約一五〇坪のビルに計画を縮小している。しかも、その約一五〇坪のうち、同町二丁目九番一、四、五及び一三については、現段階ではこれを取得できず、本件ブロックのうち、原告が現在までに取得できているのは、本件建物の敷地を含む別紙図面(二)の青斜線の部分である。

(三)  被告会社は、昭和四二年ころ棗田金治が神田神保町一丁目において創業した出版社であって、昭和四九年四月新築早々の本件建物の二階を賃借して、ここに移転し、以来十数年、右建物部分を本拠として営業を行い、実績を上げてきたものであって、神田神保町という、出版業者が集中する場所の利を生かし、本件建物において営業を継続する必要性がある。なお、当初の賃借範囲は本件建物の二階全部であったが、昭和五四年ころ中沢正の病気看病のため、息子の中沢圭治が本件建物を使用する必要が生じ、A部分を返還し、その結果賃借使用できる範囲はB部分のみとなり、賃料は月額一〇万円となっていた。

(四)  昭和六一年九月ころ、東京ハウジングの従業員今野馨が被告会社を訪れ、本件建物は東京ハウジングが買ったので賃料は東京ハウジングの方に払ってもらいたい、旨の申入れがあったので、被告はその後の賃料は同会社に支払った。ところが、その後今野馨から、建物明渡しの打診があり、そのころから翌年にかけて、本件建物周辺でいわゆる「地上げ」が続き、不安に駆られた被告があらためて同会社に対し、所有権取得を証する資料の提示を求めたところ、同会社は、昭和六二年三月一九日付け書面をもって被告に対し、「本件建物の老朽化及び土地の高度利用の必要性」等を理由として解約の申入れをするとともに、東京ハウジングが昭和六一年八月二八日中沢圭治らから本件建物及びその敷地を買い受けたことを示す同年一一月一三日付けの東京簡易裁判所の和解調書を送付した。しかしながら、本件建物の登記簿上の所有名義人は原告となっており、東京ハウジングは登記簿上全く表われておらず、いずれが所有者なのかとの被告からの問い合わせに対しても、何の説明もなかったので、被告は同年五月一四日、債権者を確知できないことを理由として、同年四、五月分の賃料を供託した。しかしその後、原告の同年五月二一日付けの書面により、本件建物の所有権は原告に移転しているが、賃貸人の地位は東京ハウジングに留保されているので賃料は東京ハウジングに支払うように、との通知があったので、被告は、その後の賃料は同会社に支払っている。

(五)  なお右折衝の過程で、被告は、前の経緯から、賃貸人が変わったのであればA部分を明渡した理由が消滅し、したがって賃貸借の範囲は旧に復し本件建物二階の全部であるとの主張をした事実はあるが、A部分を占有使用するに至ったことはなく、また本訴においても、結局は右の主張を敢えてせず、賃貸借の範囲はB部分のみであることを認めている。

(六)  その後同年六月から一〇月にかけて数回、東京ハウジングの代理人が被告会社の代表取締役棗田金治と明渡しの交渉をしたが、同人は、明渡しには応じられないとの態度に終始した。さらに東京ハウジング側では、不動産鑑定士に依頼してB部分の立退料は金一六五〇万円が相当であるとの鑑定評価書を得、同年一〇月の交渉の際、これを被告に交付し、補償額については約一六〇〇万円でどうか、との意向を伝え、またそのころ被告に対し、神田神保町及びその周辺の小川町、淡路町、須田町付近の代替物件の情報を提供したが、棗田金治は全く取り合わず、同年一二月一日付けをもって、完全な補償額を計算するとすれば金五億円(手取り額二億円)になる、との文書を東京ハウジングの代理人宛に送付し、結局交渉は決裂した。

(七)  本件建物は、昭和四九年三月に新築された鉄骨造陸屋根三階建の建物で、昭和六一年九月当時、一階は訴外株式会社関電工が中沢圭治らから賃借し、また三階と二階A部分は中沢圭治らが使用していたところ、いずれも退去し、現在は二階のB部分を被告において使用しているだけである。ただし、建築後約一五年を経ているにすぎない現在において、本件建物が老朽化し立て替えの時期が迫っていることを示す資料はない。

2  以上の事実に基づいて、先ず本件賃貸借の解約申入れの正当事由の存否について考えるに、〈1〉不動産業者である東京ハウジング及び原告は、本件ブロック内に原告のビルを建築すべく、本件ブロック内の土地建物を順次取得し、本件建物の取得もその一環としてなされたものであるが、自らの計画を本件ブロック内の土地建物の権利者に事前に開示して、全体の合意を取り付けつつ事を運んだと認めるに足りる証拠はなく、被告に対する関係では、右のとおり突然東京ハウジングが本件建物の取得を告げて明渡しを求めたものであるから、原告側の計画なるものは、被告の全く与かり知らないところであり、しかもその計画によれば、原告は、その再開発事業の一環として本件ブロック内に賃貸ビルを建築しようというのであって、自己使用の必要性から本件建物を取得したものではないこと、〈2〉他方、被告は、十数年来本件建物を営業の本拠として出版業を営んでおり、引き続きこれを使用する必要性があること、等の事実が認められ、東京ハウジング又は原告が立退料を提供し、又は代替物件を紹介するなどした事実を考慮しても、正当事由が具備しているとは解されない。

3  また、原告は、被告が〈1〉A部分も賃借範囲であると主張し、〈2〉債権者不確知として賃料の供託をし、〈3〉また頑なに明渡しを拒絶し、五億円という高額の補償を要求したことをもって、賃貸借における信頼関係を破壊したと主張する。しかしながら、右〈1〉の点は、被告が従前の経緯からそのように主張はしたものの、A部分を現実に占有して原告の使用を妨害したというわけではなく、その後右主張は撤回しているのであり、〈2〉の点は、登記がない以上賃借人に対抗できないのであるから、被告が債権者不確知として供託したことには何ら問題はなく、さらに〈3〉の点は、被告が明渡しを前提として五億円の提示をしたとは認められず、被告としては要するに明渡しの求めには応じられないとの態度に終始していたものであるところ、このような態度自体が信頼関係を破壊するとは到底いえず、結局これらの事実によって賃貸借における信頼関係が破壊されたとする解除の主張も理由がない。

四  以上のとおりであって、原告の本訴請求中、被告がA部分につき賃借権を有しないことの確認を求める部分は、本訴においてはこの事実は争いがないが、被告がかつてA部分も賃貸借の範囲であると主張した事実があることに鑑み、なお確認の利益があるものと認め、これを認容するが、原告のその余の請求はいずれも失当として棄却すべきであり、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八九条、第九二条但書の規定を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 原健三郎)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例